カテゴリー別アーカイブ: 旅日記

ホセ・ムヒカ前ウルグアイ大統領 訪船記念スピーチ

ようこそウルグアイへ

ここには350万の人がいて牛の数はその4倍です。人口は少ないですが南米で最も公平な国だと言えます。…中略…100年前から教育を公的機関が行っており決して完全ではありませんが差別や人権問題も少ない国です。…これからの未来の世代に向けて今この地球の自然を守ることお互いの紛争をなくすことは私たちの責務です。

テクノロジーの爆発と消費主義により世界中で苦しみ、戦争で亡くなっているのは一番貧困な立場にある人たちです。(大統領だったのに質素な暮らしをしている)私と妻は「変わっている」と言われますが誰よりも思っていることは物をたくさん持たずにシンプルな人生を送りたいということ、それは人生を愛しているからです。命を大切にするということは時間を大切にするということ、人生の時間はスーパーでは買えません。お金で物を買うときは、あなたの人生を使ったお金を使って生まれさせたお金を払っているのです。

そのお金に惑わされないでください。お金を使いすぎると人生の時間が無くなってしまいます。…私たちの闘いは時間を持ちその時間で互いの気持ちを確かめ合うためのものなのです。…世界の人々はみな兄弟なのです。黒人、白人、黄色人種…関係なく、あるのは一つ、人間であるということだけです。

人に受け入れられるためだけに生きるのではなく自分の思うことをやってみてください。
SDGs(国連の持続可能な開発目標)の達成のため頑張ってください。

皆さん本当にありがとう。

菊千代長旅日記

2017年も、早や3月、皆様どのようにお過ごしでしょうか?昨年暮れには、いつものことながら発行遅れ気味の菊千代こよみを二ページだてにてお送りしましたことを心よりお詫び申し上げます。
言いたいこと、知っていただきたいことがいっぱいあるのに筆先は鈍るばかりで、自分の不器用さに腹が立ちます。気を取り直して今回は、1月19日から始まりました、ピースボートの旅のお話をさせていただきます。

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10年振りを忘れてしまったような嬉しい再会、真ん中の古木さんはじめ懐かしい皆様方の前で「桃太郎」と「松山鏡」を口演させていただきました。

ピースボートとのかかわり

しばらく長期での乗船は無かったのですが、今回はブラジルの日系の皆様のところに行けるというお話をいただいたので決心いたしました。初めてピースボートからお声をかけていただいたのが2000年、ブラジルの日系の方々が落語を聞きたいとおっしゃっているので乗ってみないかと言われ、そんな噺家冥利に尽きることはないとお受けしました。その前にショートクルーズを経験してみないかと「朝鮮民主主義人民共和国」への船旅に誘っていただきました。それから17年、おかげさまでかの国には三回、そしてブラジルの日系の方々には何回も落語を聞いていただき、途中乗船、下船する間の国では様々な情景を見て、そして船内ではたくさんのお客様と知り合うことができ、同じくゲストで乗られている通常知り合うことのないだろう方々と仲良しになることもできました。

恥ずかしながら、世界や、日本の歴史、現実の細かなことをほとんど知らなかった私は、おかげさまで、色々な事を知り、感じ、まだまだ浅いですが物事を考えるようになりました。ピースボートには心から感謝しています。一時、そのご縁と楽しさに、ずいぶん乗船させていただき、日本を留守にすることも多かったので、このところは長旅は自重しておりましたが、久々のブラジルのお話でしたので、乗せていただくことにしました。そしてこれで最後になるという南極クルーズも楽しみながら、なんと52名の船内お弟子さんに落語のワークショップを開催し、見事な発表会もできました。

久し振りの長期乗船に加え、ブラジルリオデジャネイロまでの一人旅、わがままを言って帰りのチリのパルパライソからの空路もアメリカを避けてもらったので、少し楽でしたが、行きも帰りの席も通路側指定が通らず、還暦を超えた私としてはちょっと辛かったです。
やっとこさでリオデジャネイロに到着、昨年のオリンピックのおかげで大きくきれいになった空港にびっくり。そして、ホテルに連れて行ってもらい、昼食はボリュームたっぷりのシェラスコ(サラダバーには色々な物がありそれとは別に様々な種類のお肉が出てくるというブラジルの代表的なお食事)をいただき、夜は機内食でもらったミニカップ麺で就寝しました。けれども、夜中にホテルの目の前のクラブの騒音に目覚め、映画に出てくるようなブラジルの夜の世界を窓から眺めました。
翌日は寄港したての船にチェックインしてすぐにツアーバスに、一路フンシャルに向かいました。まさに私のピースボートのルーツともいえるフンシャルの日系の方たちとの再会、何せ十年ぶりですから、覚えていただいているか心配でしたが、「覚えてますか?」の一言を先に言われてしまいました。秋田から他の皆さんとは違った経路で移住された古木三衛門さんをはじめ、お顔を見れば懐かしい方々、皆さんお元気そうで色々とお話しすることができ、落語も笑ってもらい、つい「また来ます!」と言ってお別れしてきました。

夜はお船でリオの日系の方々との会食に参加させてもらい、しっかり覚えていただいていてまたもや感激、十年ぶりの玉すだれをご披露しました。
リオを出港して翌日はさっそく顔見世落語会、お弟子さん募集と、船内活動の始まりです。年配のお様が多いこと、また気楽に楽しめる企画が少なかったこともあってか、落語会はとても喜んでいただきました。集まったお弟子さんはなんと五十二名、どうなることやらとドキドキしましたが、皆さんとてもまじめで、努力の塊のような方々でした。私の落語教室に入ることを乗船前から決めていたという若い女の子もいて、またもや嬉し涙です。

ウルグアイのモンテビデオというところに入港した際には、なんとムヒカ元大統領が訪船、世界一貧しい大統領を見るために観光もそこそこにみんな船に戻ってきました。
アルゼンチンの、ブェノスアイレスも懐かしの地、ピースボート以外にも日系の方々に落語をするために伺っているのでちょっと知ったかぶりしながらスタッフの千代ベーちゃんとフロリダ通りやボカ地区に繰り出しました。アルゼンチンは本当に素敵です、ワインも美味しい!
引き続きの船内生活では手話落語の会、そして9条企画もさせていただき、そのおかげでいろいろな方から声をかけていただくようになりました。私がいつも手話の説明や小咄をするときに「幸せなら手をたたこう」も手話で唄うのですが、何と作者の木村利人先生が乗っていらっしゃり、びっくり、感謝されてしまいました。恐縮です。私ほど色々なところでこの歌を歌っている噺家はいません!

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ウシュアイヤで買った赤い革の帽子で私も度々出陣、デッキで逢うとみんな誰だかわかりません。

地球最南端のウシュアイヤの街はしっかり独り歩きし、無事帰船。そして船は南極大陸に向かって出航しました。私たちは上陸はしませんが、スリル満点の氷山の合間を縫って、クジラやペンギン、氷河を見ながらの遊覧です。朝の4時頃でも「氷山があります!、クジラがいます!」などの放送があるたびに皆さん温かい恰好をしてデッキに走ります。決死隊です。本当に南極は空気がきれいなので寒くても息が白くならないんです。知っていましたか?

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夢見亭一門、発表会終了!みな晴れ晴れとしたお顔。

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私がいない方が元気?

南極遊覧も終わり本格的スパルタ稽古が始まり、船内お弟子さんは一生懸命でした。ご自身が自主企画を主宰されていたり、ほかの高座を受けていたりと皆さん大忙しの中、大喜利メンバー八人、かっぽれメンバー10人、リレー落語や小咄メンバー30人、寄席文字もどきメンバーもでき、チリのパルパライソでの私の最終下船前日に素晴らしい発表会ができました。私の下船後も落語クラブを作ってまた発表会をします!と張り切っていた方もいましたが、どうなったことでしょう。落語ファンや、話すことの楽しさを覚えた人が一人でも増えてくれていればと、帰りの30時間の空旅もルンルンでした。

今回の長旅に際し、88歳の父は毎日自転車でうちのインコの面倒を見に通ってくれました。心より感謝です。私の留守中寂しがってご飯を食べないんじゃないかと心配した末っ子のオカメインコの桃太はしっかり太って待っていてくれました。

菊千代 旅日記

3月23~29日

●ピースボートショートクルーズに参加し石垣島から乗り台湾、那覇と寄港し博多で降りました。
今回はスタッフ大喜利と、子供たちに何か教えるというお仕事が課せられていましたが、寄港地中は自由なので私もツアーを選び参加してきました。
台湾では台北の郊外にある景美国家人権博物館[白色テロ時代の監獄跡]を実際に投獄されていた方々の案内で見学し、その当時の経緯や体験談を伺いました。白色テロとは、為政者や権力者、反革命側(君主国家の為政者あるいは保守派)によって政治的敵対勢力に対して行われる暴力的な直接行動のことだそうで、私は初めて知った言葉でしたが、日本も戦前、戦中そんなことがされていた時代があったわけだし、これからこのまま安倍さんの暴走が許されるようなことがあったら決して他人ごとではない話だと思いました。
ウィキペディアで「白色テロ」を調べたら「国家組織及び権力を是認して行われる不当逮捕や言論統制などがある」とありましたから今の日本でも実際あり得る話です。日本が敗戦後の1945年8月、連合国による委託管理として台湾駐留を任された蒋介石の軍隊が入って来て、台湾の人たちが「日本が戦敗して、祖国の軍隊が戻って来た。これからは自分達も、もう植民地の人間ではなくて、一国の国民になるのだ」と喜んで歓迎したのに、逆に中国大陸の軍隊は台湾人に対して大量殺戮や非人道的な鎮圧をしたそうです。そして台湾のリーダー級の人物を抹殺するため「台湾に潜入している共産党員を撲滅する」と言う名目で無差別な拉致、監禁、拷問、銃殺等をしたのです。お話をしてくださった方々は高齢を押して昨日の事のように詳しく、涙をためてお話ししてくれました。
道を案内してくれと車までついて行ったところで拉致されそれから二十三年間うちに帰れなかった方、爆撃犯人と疑われ、マレーシアから留学していたのにそのまま拉致され、拷問され、結局解放された後も国に帰ることが許されなかった方、高校生だったのに、疑われ家で逮捕され、そのまま投獄されてしまった方。その監獄での劣悪な拘置状況や、いつ処刑されるかわからないという恐怖の中で暮らされていたお話は聞きしに勝るものでした。私も台湾の戒厳令の時代は記憶にありましたが、詳しいことは知りませんでした。私の叔母は台湾の人と結婚していましたから、義理の叔父もいろいろ苦労したんだろうなあと思いました。お部屋に記録された処刑者のメモリアルの中に私の生まれた1956年7月24日に3人処刑された方の名前があったのはショックでした。

●那覇では四回目になりますが辺野古に行きました。
キャンプ・シュワブのゲートの前でテントを張って抗議している方々への応援と抗議行動参加のためです。一回目、やはりピースボートのツアーで行ったのでしたが、韓国の方たちと一緒でした。
当時は海岸べりのところで、テントを張っていて一番長老の金城さんという方が私たち日本人には目もくれず「あなたたちと沖縄人は同じ、自分の土地をよその国の基地にされて苦しめられている、私たちは思いが共有できるねえ」と韓国の人たちにおっしゃってるのを聞いて、悲しくて帰りのバスの中で大泣きしました。他人事のように、都合の良い時だけ沖縄で楽しんで、基地については知らん顔している、そんな風な人だと思われたくない!心から思いました。今、沖縄で基地があるから仕事が潤っているという人は5パーセントほどだと伺いました。基地を無くし、観光施設の充実を図った方がよっぽど島は潤うと、辺野古のある大浦湾を世界遺産にとがんばっている東恩納さんは言っていました。

本当に美しい海です。
普天間の人たちは基地を移設してほしいんじゃありません、無くしてほしいんです。

聞けば、もともとの計画として初めに辺野古の海上基地計画があり、それが出来れば普天間がいらなくなるということだったのだそうです。日本と米軍とのやり取りの資料を取り寄せ解読し事実に迫って戦っている真喜志さんは「沖縄の方言で嘘のことをユクシーというんだよ、だから安倍さんたちが使ってる『抑止力』という言葉は『ヨクシ』ではなく『ユクシー』力だね」とおっしゃっていました。
あえてこの菊千代ごよみで書かせていただくのは沖縄の人たちだけの問題ではない、政治の話ではない、生活の問題、自然破壊の問題だからです。みんなでできる限りの声を上げるべきだと思います。沖縄の人たちは近くに原発が無くても、基地問題と同じだねと反対の声を上げてくれるのに、内地の人間は冷たいです。

普天間