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我が家のお姫様

オカメインコのぽん太 大往生

17年間、私にやさしいオーラを与えてくれ、癒してくれたぽん太が逝きました。18年前初めて飼ってみたオカメインコを私の不勉強で死なせてしまい、その償いにと2羽の雛を買ってきたのがぽん太とごん太、2羽ともとてもなついてくれました。どちらかというと神経質で臆病なのがぽん太だったので、3年前にごん太が亡くなった時にはどうなることかと心配したのですが、逆に一人天下のお姫様状態で、放鳥時にはいつも私の肩にいて顔の産毛やうなじの毛を抜いたりして遊んでいました。

去年体調を崩し、悩んだ結果手術の道を選び無事成功、このこよみでも報告させていただきましたが、あんな小さな身体を手術した先生もすごいけど、ちゃんと元気になったぽん太はもっとすごかった!その後、色々あり2回入院しそのつど回復して戻ってきてくれました。けれども、朝、今までよりもずうっと具合が悪そうであわてて病院に連れて行き四度目の入院となりました。インコは飼い主の期待に添えようとして元気にご飯を食べるふりをしたりするので、ぽん太もギリギリまで無理していたのかもしれません。お医者さんに連れて行った時の様子を見ても、もう駄目かなと思いましたが、いや、ぽん太なら持ち直してくれるかもという期待もありました。

けれどもそれから3日目の朝、看護師さんから電話がありました。朝の7時頃診に行ったら息を引き取っていたそうです、先生が「ぽん太ちゃん、朝4時頃診まわった時にはじっとしていたし、このところ少し自力でご飯も食べていたので持ち直してくれるかと思ったんですけどね。お力になれなくて申し訳ありませんでした」、綺麗な箱にちゃんと寝かしてくれた姿を前に看護師さんと深々と頭を下げて下さり、やっぱり、病院で最後まで診ていただいて、大事にしてもらえて良かったと思いました。
今まで、何羽か私の配慮の足りなさで死なせてしまった鳥たちの分も、この子にはしっかり供養してやりたいと思い、ネットでペットの埋葬を調べてみました。なんと移動火葬車でお骨にして返してくれる業者さんが有るということを発見し、急ぎ足でしたがその夜、無事に火葬してお骨にしてもらい、玄関先でしたが、鳥さんの一番固いくちばしの部分をしっかり見せて下さり、大事に可愛い骨壺に入れて袋に入れて渡してくれました。飼い主にとっては大事な存在でも嫌いな人からすればたかがペットかもしれません。でも鳥の病院の先生や看護師さんの対応、例えば様子を聞く電話一本にしても「ぽん太ちゃんですねえ、今日はちょっと顔色が良くなってご飯も食べてくれてますよ~」と言われてほっとし、大事に扱っていただいていることを実感しました。喪服で引き取りにみえた葬儀屋さんの態度も、生前の様子を聞いてくれたり、ペットを愛する飼い主への思いやりがあふれていました。
一七年間ずっと一緒にいてくれたぽん太に感謝です。

ポンタ
手前はごん太、今天国で一緒!

子供力はすごい!

今回船にはたくさん子供たちが乗っていたので何かやってもらいたいと思い、三時間の授業でしたが小学生高学年の五人の女の子たちに南京玉すだれを教えました。
釣竿・橋・鯛の三つの形だけにはしたもののかなり難しいので心配しました。ところが、いやいや子供はすごいですね。しかもやはり女の子はしっかり者です、船で知り合ったばかりのお友達なのに、それぞれを思いやり、私の言ったことはすぐ理解してくれるし、忘れないし。集中力あるし。度胸もあるし。本番で一人もモジモジせず、立ち位置も言った通りしっかり並ぶし、本当に感心しました。これからも子供たちにどんどん、落語や演芸に触れて貰うよう努力します。

菊千代 旅日記

3月23~29日

●ピースボートショートクルーズに参加し石垣島から乗り台湾、那覇と寄港し博多で降りました。
今回はスタッフ大喜利と、子供たちに何か教えるというお仕事が課せられていましたが、寄港地中は自由なので私もツアーを選び参加してきました。
台湾では台北の郊外にある景美国家人権博物館[白色テロ時代の監獄跡]を実際に投獄されていた方々の案内で見学し、その当時の経緯や体験談を伺いました。白色テロとは、為政者や権力者、反革命側(君主国家の為政者あるいは保守派)によって政治的敵対勢力に対して行われる暴力的な直接行動のことだそうで、私は初めて知った言葉でしたが、日本も戦前、戦中そんなことがされていた時代があったわけだし、これからこのまま安倍さんの暴走が許されるようなことがあったら決して他人ごとではない話だと思いました。
ウィキペディアで「白色テロ」を調べたら「国家組織及び権力を是認して行われる不当逮捕や言論統制などがある」とありましたから今の日本でも実際あり得る話です。日本が敗戦後の1945年8月、連合国による委託管理として台湾駐留を任された蒋介石の軍隊が入って来て、台湾の人たちが「日本が戦敗して、祖国の軍隊が戻って来た。これからは自分達も、もう植民地の人間ではなくて、一国の国民になるのだ」と喜んで歓迎したのに、逆に中国大陸の軍隊は台湾人に対して大量殺戮や非人道的な鎮圧をしたそうです。そして台湾のリーダー級の人物を抹殺するため「台湾に潜入している共産党員を撲滅する」と言う名目で無差別な拉致、監禁、拷問、銃殺等をしたのです。お話をしてくださった方々は高齢を押して昨日の事のように詳しく、涙をためてお話ししてくれました。
道を案内してくれと車までついて行ったところで拉致されそれから二十三年間うちに帰れなかった方、爆撃犯人と疑われ、マレーシアから留学していたのにそのまま拉致され、拷問され、結局解放された後も国に帰ることが許されなかった方、高校生だったのに、疑われ家で逮捕され、そのまま投獄されてしまった方。その監獄での劣悪な拘置状況や、いつ処刑されるかわからないという恐怖の中で暮らされていたお話は聞きしに勝るものでした。私も台湾の戒厳令の時代は記憶にありましたが、詳しいことは知りませんでした。私の叔母は台湾の人と結婚していましたから、義理の叔父もいろいろ苦労したんだろうなあと思いました。お部屋に記録された処刑者のメモリアルの中に私の生まれた1956年7月24日に3人処刑された方の名前があったのはショックでした。

●那覇では四回目になりますが辺野古に行きました。
キャンプ・シュワブのゲートの前でテントを張って抗議している方々への応援と抗議行動参加のためです。一回目、やはりピースボートのツアーで行ったのでしたが、韓国の方たちと一緒でした。
当時は海岸べりのところで、テントを張っていて一番長老の金城さんという方が私たち日本人には目もくれず「あなたたちと沖縄人は同じ、自分の土地をよその国の基地にされて苦しめられている、私たちは思いが共有できるねえ」と韓国の人たちにおっしゃってるのを聞いて、悲しくて帰りのバスの中で大泣きしました。他人事のように、都合の良い時だけ沖縄で楽しんで、基地については知らん顔している、そんな風な人だと思われたくない!心から思いました。今、沖縄で基地があるから仕事が潤っているという人は5パーセントほどだと伺いました。基地を無くし、観光施設の充実を図った方がよっぽど島は潤うと、辺野古のある大浦湾を世界遺産にとがんばっている東恩納さんは言っていました。

本当に美しい海です。
普天間の人たちは基地を移設してほしいんじゃありません、無くしてほしいんです。

聞けば、もともとの計画として初めに辺野古の海上基地計画があり、それが出来れば普天間がいらなくなるということだったのだそうです。日本と米軍とのやり取りの資料を取り寄せ解読し事実に迫って戦っている真喜志さんは「沖縄の方言で嘘のことをユクシーというんだよ、だから安倍さんたちが使ってる『抑止力』という言葉は『ヨクシ』ではなく『ユクシー』力だね」とおっしゃっていました。
あえてこの菊千代ごよみで書かせていただくのは沖縄の人たちだけの問題ではない、政治の話ではない、生活の問題、自然破壊の問題だからです。みんなでできる限りの声を上げるべきだと思います。沖縄の人たちは近くに原発が無くても、基地問題と同じだねと反対の声を上げてくれるのに、内地の人間は冷たいです。

普天間

菊千代の思い語り 昭和三年生まれの大事な人たち

四人の恩人の大きな力

私が古今亭菊千代という噺家として、大好きなことを仕事としてご飯を食べていけている(かろうじてですが…)のは4人の人の大きな力があったおかげだと思っています。
両親のおかげ二人は両親です。私を生み、育て、そして見守り、応援してくれたこと。世間の親子関係、色々な事件などを見ると決して親なら当たり前とは言えない昨今、本当に私は幸せ者だなあと思います。
母は平成2年に62歳で他界しましたが、父に「娘にお父さんの物、洗濯させないで!自分のことは自分でするように」ときつく言って入院生活に入り、いわばそれが遺言になってしましました。その言葉をしっかり守って何でも自分でする父は、我が家から20分ほどのところに住み、そこで現役のソフトカイロプラクティック治療師をとして治療院を続けています。また最近は手話を習い始めたり、私が旅のときのインコたちの世話をしに自転車で駆け付けたりと大変元気です。

その父が先日、なんと単身アメリカに行って帰ってきました。若いころ米軍のお仕事をしていたころ仲良しだった方がアメリカに帰られてから、何度か行ったり来たりしていましたが、三十年近くは手紙のみのお付き合いでした。ところがいつの間にか父はフェイスブックで彼の娘婿さんと近況のやりとりをし、お父さんの九十歳のお祝いに来てくれないかと誘われたらしいのです。

シカゴ経由でミシガン州のフリント空港まで、14時間の時差、待ち時間含めて20時間近い旅を往復こなして帰ってきました。いくら英語ができるとはいえ、30年近くネイティブな会話はしていないのですから、緊張はしていたようですが、あちらのお孫さんたちにはおじいちゃんおばあちゃんと同じだからと、大事にされ、大学で健康についての講義までさせてもらったり、色々楽しく有意義に過ごせたようで、本当に行ってよかった!と意気揚々と帰ってきました。私も父を送る時には、今まで散々ピースボートのスタッフにしてもらってきたことが身になっていて、父の手続きを手伝うことができ、嬉しい思いをしました。

86歳で、アメリカまで行けるということは私もまだあと30年ぐらいは大丈夫なんだなあ、と勇気をもらいました。

 

師匠円菊の三回忌を迎えました。

三人目は、二年前に他界した師匠、古今亭円菊です。噺家になれなかったら、弟子にしてもらえなかったら、死のうと本気で思っていた私を、自分のリスクも顧みず弟子にしてくれた命の恩人、何よりも円菊の弟子だったから今までやってこられたのです。一昨年亡くなって今年が三回忌、10月に法事を終えましたが、なんと師匠の命日10月13日は、師匠が熱心に信仰していた日蓮宗の宗祖、日蓮上人の命日と一緒だと知り驚きました。さすが師匠!という感じです。

engikuだいたいどこの一門も師匠が亡くなるとばらばらになってしまうところが多いのに、我が一門は不思議なくらいに更にまとまりました。これもひとえに師匠の厳しい教えのおかげです。
師匠が亡くなってから一門会が増えるなんて本当に素晴らしいことです。あとは、なるべく早く、息子である菊生が円菊の名前を襲名することを、私の一存ですが願っています。

 

9月20日私の大好きな、
尊敬する土井さんが亡くなられました。

そして四人目は第二の師匠として尊敬してやまない土井たか子さんです。そもそもは私が二ツ目になって、若手女流芸人の会「撫子倶楽部」という会を立ち上げた時にゲストとして応援にいらしていただいたのがご縁の始まりでした。

亡き母がファンで、土井さんを呼んだら!という一言がきっかけでした。もちろん、当時社会党の初の女性委員長として様々な問題と戦っていた雲の上の人が、芸人の会に来てくれるとは思えませんでした。けれども、ダメでもともととお手紙を書くと、秘書の五島さんがしっかり受け止めてくださり、土井さんに「行ってあげて」と進めてくださったのです。

母が亡くなった時には心温まる長い弔電とお花をいただき、それから私の真打が決まり、東海道五十三次でのつらい修行の旅の折には、京都の三条大橋で花束を持って迎えてくださり、真打披露パーティには先代の柳家小さん師匠の隣の席で笑顔を振りまいてくださいました。

私にできることはあまり有りませんでしたが、土井さんの選挙には何回か応援に行かせていただきました。その頃の私は今のように、平和のありがたさなどあまり考えていなかったので、政治のこともよくわからず、ただただ土井さん大好きですというばかりの応援でしたが、震災後の神戸の仮設住宅や、地元の講演会で土井さんが見えるまでのつなぎをさせていただいたり、名誉なことこの上ないことをたくさんさせていただきました。

土井さんが北海道の選挙の応援に行かれるのを手伝ってほしいと言っていただき、一緒に党首コース・黒塗りの車での移動、空港待遇、そしてお土産売り場での土井さんのおちゃめなお買い物風景、東京に帰ってからご褒美にごちそうになった燕グリルのハンバーグ…。鈴本での暮れの東西女流の会にはたびたびお越しいただき、六月の菊千代バラエティ笑にはゲスト出演もしていただきました。好物のお大福を差しあげるととても嬉しそうに口の周りを白くして召し上がっていました。

私がピースボートと巡り合い、北朝鮮に行き、平和についていろいろ考えるようになって、土井さんに興奮して報告したりすると、「まあまあ、菊千代ちゃん落ち着いて…」と逆になだめられたこともありました。そもそも土井さんを支える会で知り合った方々が今も私の宝物、ご縁はすべて土井さんのおかげです。暮れには土井さんの大好きなカラオケもご一緒しました。またそのお席でも素敵な方々と知り合うことが出来大きな財産になっています。

doiお身体を壊され、地元にお帰りになってからは一度もお目にかかることができませんでしたが、うちの仏壇には若々しい土井さんと元気だった母のツーショットの写真が飾ってあります。この菊千代ごよみを発行している菊千代後援会、会長はいません。名誉会長土井たか子さんのみです。名誉会長なので天国で見守っていただければと思います。大好きな土井さん、いつまでも菊千代を応援して、見守っていて下さいませ。

 

足助のかじやさん広瀬さんとの突然のお別れ

前号でも報告いたしました、大好きな豊田市足助町、毎年参加しているたんころりん祭りでの路上ライブ、私の大事な年中行事の一つですが、その窓口になり、またご自身のライブハウス「足助のかじやさん」では落語会も主催してくださっていた広瀬さんが、8月29日急性白血病で亡くなられました。

今年1月には江東フォークフェスティバルに参加、各地でライブ活動を繰り広げ、9月13日はまた上京して大森でライブをする予定でした。7月に落語会をしていただいた時にはお元気で、そんなことになるなんて誰も思いませんでした。その後、病気を発症し、余命を告知された時も東京でのライブは絶対行く!とおっしゃっていたそうでしたが…。kajiyaあまりにも早い、急な、残酷なお別れになってしまいました。ご家族の寂しさを思うだけでも辛いばかりです。広瀬さんの優しい歌声、お茶目な笑顔忘れません。ご冥福をお祈りします。

菊千代30年の歩み

早いもので昭和59年、1984年に師匠古今亭円菊門下に入門して30周年目を迎えました。
会員の皆様には今年の菊千代囲む会のお誘いをしておりませんが、来年3月1日に30周年イベントをさせていただく予定ですのでよろしくお願いいたします。名誉会長の土井たか子さんがお亡くなりになり、寂しい限りですが、永久名誉会長として天国で引き続き応援していただくことにいたしました。
あっという間の30年でしたが、色々なことがありました。ちょいと振り返ってみようと思います。お付き合いくださいませ。

1984年〈昭和59年〉古今亭円菊門下7月20日入門
同年9月 四谷倶楽部にて初高座「狸鯉」
同年10月 前座名 菊乃で楽屋入り
1988年〈63年〉9月 二ツ目昇進
同年12月8日 本牧亭にて女流芸人の会
「撫子倶楽部」旗揚げ
1990年〈平成2年〉 5月母他界
6月第1回鈴本菊千代バラエティ笑
菊千代後援会 設立
1993年〈5年〉3月 真打昇進 菊千代襲名
「古今亭菊千代噺家です」出版
1996年〈8年〉3月 池袋演芸場にて第1回手話落語の会
2000年〈12年〉ピースボート初乗船
初めて北朝鮮へ ピースフェスティバル参加
2001年〈13年〉2月ピースボートにて
ブラジル日系移民の方々との出会い
2001年8月 北朝鮮と韓国にて世界初のコリアン落語『松山鏡』を披露
以降ピースボート多数乗船、世界各国に行きながら、
落語ワークショップにより船内弟子に落語、玉すだれなどを指導。
2002年〈14年〉6月 東京矯正官区長より東京拘置所の
篤志面接委員拝命。話し方教室他、全国の矯正施設訪問活動開始
2003年〈15年〉10月 弟子 ちよりん入門
12月 韓国斎州島 日本領事館文化ホールにて二次元落語などを公演
2006年〈18年〉2月アルゼンチン、ブエノスアイレス「日本庭園」ホールにて、
日系の方々に落語披露。
2006年5月 古今亭菊千代文化交流訪朝団として16名のメンバーで訪朝、
中学校で朝鮮語、外語大学では古典落語を日本語で披露する。
2007年〈19年〉ちよりん二ツ目昇進
2008年〈20年〉アルゼンチン、パラグアイなどで日系の方々への落語公演
2011年〈23年〉より戸塚「ぼちぼち亭」、翌年より新宿「福々 亭」・
千歳烏山「楽し家」の落語教室始まる。
2014年〈26年〉「体験 子共寄席」全5巻出版

夏はおなじみ・住吉踊り

8月中席[11日から20日まで]は浅草演芸ホール恒例の「住吉踊り」があります。古今亭志ん朝師匠が8代目雷門助六師匠を踊りの師として始めたもので、毎年開催しています。私は師匠円菊の勧めで前座の時に入れていただき、途中ブランクもありましたが末席に置いてもらっています。落語協会と芸術協会所属の噺家の、寄席では唯一のジョイント興業です。
志ん朝師匠亡きあとは三遊亭金馬師匠が座長を務めていましたが、高齢であるため、現在では金原亭駒三師匠が個性多き芸人たちをまとめて下さっています。 私は11日から15日までは12時45分の落語の出番と3時半からの踊り子として、16・17は踊り子のみで参加します。
かっぽれ、奴さん、深川などおなじみのものから珍しい踊りまで、私の踊りはともかくとして、噺家、漫才師、手品師、太神楽まで、さまざまな寄席芸人がそろいの浴衣で、粋に踊ります。10時半開演16時半終了、10日間のうちいつでも使える前売り券が若干お安くお渡しできますのでどうぞ、菊千代まで、ご予約下さいませ。

言わなきゃ気が済まない話

私の大好きな餃子の天龍、池袋東武店で夕飯を食べていると、後ろの席に80歳近い感じの男性が二人、生ビールでかなりメーターが上がっていました。大きな声なのでつい内容を聞いていると「徴兵制を復活すべきだ」「だいいち原爆落とされたらどうするんだ」「中国が(中華屋さんなのに)攻めてきたら…北朝鮮もあぶないよ…」「このあいだ靖国にいた若者は良かったよなあ、ああいうのがなかなかいないんだ、今の若いのは女の子とちゃらちゃらして、国を守ろうなんて気が無いんだ」などと、熱く語っておられました。私は餃子を食べながら、今の若者たちにこの国のなにを守らせたいのか、まず今の若いのが女の子と仲良くならなければ子供は生まれないんだぞお。なによりもあんたたちの孫が徴兵されても良いのか、それとも自分たちが行くつもりなのか?と心で叫んでいるうちに味もわからなくなっていました。
いつぞやは、やはり年配の男性二人が「原発なんて、ラジウム温泉に入ると思えばいいんだ、大丈夫だよ」と喫茶店で談笑…いるんですよ、実際こういう人が。
オリンピックやカジノで景気が回復して庶民の暮らしが良くなるなんていうのを本気で思っている人たち、東北の復興がだいぶ進んでいるなんて、行っても見てもいないのに言っている人たち、アメリカに守ってもらうんだから日本の若者も血を流せなんて言われてなんとも感じない人たち、日本が戦争中に犯した数々の罪をあんなのは作り話だなんて平気でいう人たち、私はそういう人たちの気がしれません。無関心も困りますが、無責任も困ります。子供たち、若い人たちに対して恥ずかしくない人生の先輩になりたいものです。

先日朝日新聞に掲載された中学生の文章がネットで流れてきたのでご紹介します。
僕は戦場で人を殺せません
中学生(名前は省略・東京都 15)
日本が憲法の解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認し、戦争ができる国になる可能性が日々増しています。おそらく戦場へ向かわされるであろう世代のひとりとして、気持ちを述べさせていただきます。
僕の友人の中にも、集団的自衛権の行使が必要だと考える人はいます。しかし僕は反対です。徴兵され、戦場に送られ、人を殺したくないからです。
人を殺すことは、通常の世界では最も重い罪です。しかし戦場では、その一番重い罪である人殺しを命令されるのです。命令に従うのがよいことで、命令に背けば罰せられます。この矛盾が僕には理解できず、受け入れられません。
それに、人は何のために生まれてくるのでしょうか。戦いで人を殺したり、殺されたりするためではないはずです。全ての人間に与えられる人生は、たった一度です。人を殺した罪を引きずって生きたり、自分が望まない時に命が無理やり終わったりすることは、あまりにも残念で、悲しいことです。 集団的自衛権の行使は、海外で人を殺すことを伴います。僕には、それは絶対できません。集団的自衛権行使の意味を、国全体で考え直す必要があると強く思います。
●安倍さんは読んでないでしょうね

我が家のぽん太

このところインコの話題ばかりで申し訳ないのですが、我が家の古株女王様オカメインコのぽん太が、体調を崩しました。昔は鳥も犬猫用の動物病院に連れて行くしかなかったのですが、今では小鳥や小動物専門の病院が何軒もでき、飼い主たちも安心です。何かあった時にはと目星をつけていた病院が世田谷にあるので、早速電話をして予約を取りました。
受付で先にぽん太を預け、30分ほどすると診察室?に呼ばれました。「ただいまレントゲンと血液検査をしましたが」、見ると見事なぽん太のレントゲン写真、結局女の子なので卵管に卵のかけらのようなカルシウムが詰まっていて内臓を圧迫しているのだそうで、人間と同じようなチェックシートを見せてもらい「血液検査では糖尿の気もありませんし…」。人間と全く同じ説明を受けました。
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結局は食欲が無いので、強制的にご飯を食べさせて、注射での薬の投与で…「もし、それでうまくいかなければ手術ということになりますが、歳ですからねえ、様子を見てみましょう。これで当人が元気になってくれればいいん ですが」。インコは、飼い主の前ではご飯を食べるふりや元気な顔をするので、しばらくは入院、面会も駄目。「いつも、必ず肩に乗っけたりしてるんですけど」と聞くと「あなたが、 お腹に嫌なものが出来てしんどいのに外へ出るのはいやでしょう?それと同じですよ」。
言われてみればごもっともです。毎日様子を聞く電話をしていいというので、決まった時間に電話をしました。「ぽん太ちゃんの様子ですねえ、今朝の体重は〇〇グラム…ちょっと息が荒いですねえ」とても丁寧に対応してくれるのに感動しました。薬でだいぶ楽になったのか体重は増えたものの、やはりお腹も膨らんできて、結局このまま見守るか、手術か?の選択をすることになりました。小さな体に麻酔を打つだけでショック死してしまう場合もある、術後の回復が年齢的に難しい場合もあるなど、いろいろ脅かされましたが、でも先生は最終的には手術を勧めている気がしました。
私のせいで早死にさせてしまったインコたちに対してのように後悔したくなかったので、私は手術を選びました。結果は大成功、九四グラムまでになった体が手術で腫れた部分をとって82グラムに、それから一週間は面会できず、様子を聞くばかりでしたが、日に日に体重を取り戻し退院できることになりました。先生からの説明では、出血が多かったので輸血をしたとのこと???いったい誰の血なのかわかりませんが、本当に医学はすごい!これでまた長生きできますよと先生に励ましてもらいました。
まだ通院も残っていますがひとまずは安心です。輸血の血が良かったのか、なんだか逆に若々しくなったぽん太。病院に電話した時、看護師の方が「ああ、ぽん太ちゃんの様子ですねえ。だいぶ顔色が良くなってきましたよ」と言ってくれていたのがわかる気がする今日この頃です。

足助の子供たち

私の大好きな豊田市足助、たんころりん祭りに毎年伺っては軒づけライブ、そして「足助のかじやさん」というライブハウスでは独演会をさせてもらっています。前々から子供たちに落語をと声をかけていただいていたのが実現し、足助中学の生徒さんたち約二百名の前で落語の歴史や動作の説明から私自身どうして噺家になったかなどの話と落語二席、質疑応答も含めて二時間弱の公演をさせてもらいました。
質疑応答に30分も時間をとってあったので、そんなに質問来ないんじゃないですか?というと「いやいや、きっと大変ですよ」足助中学のОBとして企画してくださった奥村さんが笑っていましたが。その通りで、前半の私の講演を踏まえての突っ込んだ質問には驚きました。自分たちの将来を考えての質問から「失礼ですが年齢はいくつですか?」まで。半分以上の子供たちが『はいはい!』と手を上げる姿に感動しました。日本はまだまだ大丈夫、それより大人はしっかりせにゃ、こんな子たちの芽をつぶすこと無いようにしなきゃ!と思いました。
生徒会長さんのお礼の言葉、かっこいいハスキーボイスの女子ですが『私も地域のクラブでソフトボールをやっていますが、やはり菊千代さんと同じ男社会なので、お話を聞いていて共感しました』と言ってくれたのには、一晩語り合ってみたく思いました。最近の少子化問題で特に地方は、学校の統合で何時間もかけて小学校、中学校に通い、送り迎え等でもご両親の負担の多いことや、学校での部活などにも制限が出ている問題など、お話も伺いました。
足助はお祭りが盛んで、お囃子練習などで近所の子供たちが月に何べんも集まって先輩から教わったりしているので、地域での上下関係やつながりが深いのです。町全体が子供を育てているような感じがします。足助とのご縁、大事にしていきます。自称、足助観光大使菊千代です。

ある日の銀座

4月23日、オバマ大統領が来日しました。ひねくれ者の私は別段気にもしていなかったのですが、たまたま銀座で夕飯を食べていたら大変な騒ぎ、なんでも安倍氏と寿司屋さんで外交するとか。場所は「すきやばし次郎」という三つ星高級店。82歳の大将がドキュメント映画になり世界に発信されたので超有名なのですが、座って3万円というお値段に、私は行きつけの谷中の三喜鮨なら何回いけるだろうとか、もう孫がいても良いような年の息子さんはいつでも補佐で、本当は彼が握っているのに、大将だけがもてはやされる、息子を立てることを知らない年老いた父親の下にいるのは辛いだろうなあ、気の毒だなあなんて余計な、大きなお世話ばかり考えていました。

その店で、TPPや防衛問題など、直接庶民に影響するであろう話しをする、じり貧で生活しているものの気持ちは考えない、いかにも安倍さんらしいこと。そのせいで交通規制、歩行者の通行も邪魔して、他の店はお客さんが入らず、カラオケ屋さんに入った人たちは出ることが出来ず、なんて迷惑なことだったか。しかも、信頼できる情報筋によると、その3万円のおまかせコースお寿司20貫の半分しか手を付けなかったそうな。ナンセンス極まる、寿司屋カウンター外交。

戦争ができる国に、武器を売る国に、農業に携わる人たちを苦しめる国に、危険な原発をまた動かすような国、その原発を他国に売る国にする相談を、寿司屋でするな!と思うのは私だけでしょうか。